第一章 俺×由良 夢のカケラ
志島勇登(しじまゆうと)は額の汗を手の甲で拭いながら、喫茶PJ(ピージェイ)のガラス扉を思い切り押した。
ドアに取り付けられている真鍮色のベルが、カランカランと派手に鳴った。店内に入るとすぐに、ほろ苦いコーヒーの香りに包まれた。カウンター席が5席、テーブルが2卓ある小さな喫茶店。
「また走ってきたの?」
Tシャツにハーフパンツ姿の勇登を見た城嶋ナオ(じょうしまなお)は、カウンター越しに呆れ顔でいった。そんなナオに勇登は構わず、軽い足取りでいつもの席についた。カウンターの一番奥の壁際が指定席だ。
ナオは勇登の高校の同級生で、航空自衛隊小牧基地近くにある家族経営の喫茶店の娘だ。ついこの間、勇登と同じ高校を卒業して、4月からは調理の専門学校に通うことになっている。
明るく人好きな性格で、実家の喫茶店を手伝っている。茶色のシュシュで緩く纏められた黒髪が、どこか昭和を感じさせる店の雰囲気に合っている。
ナオは勇登が腰掛けると同時に、キンキンに冷えた氷水を出した。
「ありがと」
勇登はナオの目を見て笑った。
一方の勇登は、中学校進学時に、母の小牧基地への転属が決まり、祖父母が遺した小牧市内の母の実家に住みはじめた。
高校進学時には、母は岐阜基地に転属となったが、小牧基地と岐阜基地の距離は20キロ程度離れているだけだったから、母はそのまま実家から通勤した。おかげで勇登は、引っ越しから解放され、中学・高校時代を小牧で過ごすことができた。
勇登は水を一気に飲みほすと、アイスコーヒーを頼んだ。
「ところで勇登、ちゃんと勉強してるの?」
ナオはグラスに氷を入れながらいった。
「まあ、ぼちぼちな」
勇登は頭上で何となく流れているテレビを見ながら、上の空で答えた。
「受験でいろいろあって大変だったのはわかるけど、気分切り替えなきゃね」
「……そうだな」
勇登は、テレビから目を離すことなくしかめっ面で答えた。高校卒業後は大学に進学する予定だった。
しかし、インフルエンザや盲腸の緊急入院が、ことごとく試験日と重なり大学受験に失敗した。挑戦することも許されなかったなんて、運が悪かったとしかいえなかった。そして、母は勇登の高校卒業と同時に再び転属してしまい、勇登はひとり小牧で浪人生活を送ることとなった。
「前から思ってたんだけど、勇登、大学入ってなにするの?」
「……何するって、みんなそうしてるし」
「自分の目標とかってないの?」
ナオはアイスコーヒーを勇登の前に出した。
「……さあ」
「なんか、他人事みたいね」
勇登はこの話題が嫌になって、話を変えた。
「そういえば、小学校の同級生からクラス会に誘われたんだ。4月からは進学や就職で地元離れる奴も多いから、最後に会っておこうって趣旨らしいけど、浜松遠いし、めんどくせーな」
勇登は小学4~6年を浜松で過ごした。3年間だけだったが、転校生ということで、よくしてもらえたのだ。クラス全員とにかく仲がよかったのを覚えてるし、転校後も付き合いのある友達が何人かいた。
「ふーん」
ナオは腕を組むと、立派な筋肉をした勇登の上半身をいちべつしていった。
「そうやって文句いいながらも行くんでしょ。勇登結構モテるしね。……ちょっと気になるあの子、とかいたりして」
「――!」
飲んでいたコーヒーが気管に入り、勇登は大きくむせた。
*
ナオは勇登が帰った後、彼が平らげたレバニラの食器を片付けながら、勇登とはじめて会話した日を思い出して、クスリと笑った。
あの日、スーパーの総菜売り場の前で首をかしげている勇登を、ナオはしばらく遠目に見ていた。
ナオはその年高校に入ったばかりで、彼はクラスメイトのひとりだった。
高校に入学すると新しい人間関係がはじまり、中学までの歴史は一旦リセットされる。お互い目には見えない探り合いがはじまり、徐々に自分の立ち位置を確立していく。
その中で勇登は初日から頭角を現した。
すらりとした体型には、程よく筋肉がついていて、いざという時は頼りになりそうな感じがした。それでいて整った目鼻立ちで凛々しさがあるのに、子供みたいに無邪気に可愛らしく笑うから、そのギャップが女子の心を掴み、あっという間に一番人気になった。
その彼が、庶民的な総菜コーナーの前でひとり悩んでいるとなれば、更に人気が出るのは間違いなかった。
平日の夕方でも、お惣菜コーナーは充実していた。最近は家庭と仕事を両立している女性が多いからだろう。パック詰めされたものから、量り売りのものまで、欲しいものを必要な量だけ買うことができる。
勇登は色とりどりのおかずが並ぶ量り売りコーナーの前で、困惑の表情を浮かべていた。
ナオは一歩踏み出した。
「志島君?」
本人だと確実にわかっていたが、緊張したのか語尾が上がってしまった。彼と話したことは一度もなかった。
「ああ、城嶋」
勇登は振り返るとはっきりとそういった。入学してまだひと月足らず、たいして有名でもないナオの名前を彼は覚えていた。
「なにか買い物?」
ナオは平静を装って、きいた。
「ああ、今日は母親が仕事で泊まりだから、夕飯買おうと思って。いつもはコンビニなんだけど、ちょっと飽きたから、スーパーに来てみたんだ。城嶋は?」
「わ、私は、ちょっと買い出し。志島君、お惣菜買うの?」
ナオは量り売りコーナーを見ながらいった。
「うん。このレバニラがすっげー旨そうなんだけど、買いかたがわからなくてさ。誰か買うの待って、それ真似しようと思ったんだけど、誰も買わねーの」
そういって勇登は、はにかんだ。
その表情に心臓が一度大きく跳ねたが、それは気にせずに抑えた声でナオはいった。
「レ、レバニラだったら、うちで食べればいいよ。あるよ。レバニラセット」
「え?なに、城嶋ん家、店やってんの?」
「うん、喫茶店だけど、ちょっとしたご飯も出してるの。今日も買い忘れの買い出し。うちのお母さんすぐ忘れるんだよね。よかったら食べに来る?」
「いいの?行く、行く!」
勇登は身を乗り出すと満面の笑みを見せた。
その表情に今度は心臓がキューっとなり、すぐに声を出せそうになかったから、ナオは最大限の笑顔で答えた。
店に連れてこられた勇登は、はじめキョロキョロと店の中を観察していたが、目の前に皿が置かれると「すげえ」といって目を輝かせた。
ナオは勇登の向かいの席に腰かけて「うまい、うまい」といって、レバニラとご飯を交互に食べる彼を見ていた。自分が作ったわけでもないのに、不思議と嬉しくなった。
店はもともと祖母がはじめて、祖母と母で経営していた。これまでは、店でレバニラを出していることが気に入らなかったが、このときばかりは悪くないと思えた。
勇登は、大盛りのご飯をたいらげると「おいしかったーっ」といってお腹をさすった。ナオがいれたてのコーヒーを出すと、勇登は母親が航空自衛官で『当直』という基地に泊まりの勤務があること、母親と二人で暮らしているいることなどを話してくれた。
*
数日後。
勇登は名古屋から浜松行きの電車に乗った。
特に誇れることは何もない状況だったが、それでも浜松に向かったのはナオのいうとおり「少し気になる子」がいたからだった。
浜松に着くと、勇登は待ち合わせ場所である市内の中学校に向かった。
勇登は小学校しか知らないが、同級生のほとんどが同じ中学校に進学していた。集まったのは十数人。みんな当時の面影を残しながら、成長していた。久しぶりのぎこちなさも、少し話せばすぐにあの頃の感覚に戻る。みんな高校は散り散りになっていたので、懐かしさもあってか、しばしの間会話に花が咲いた。
近くでまとまっていた女子グループの一人が、甲高い声で叫んだ。
「えー、すごい!美夏、自衛隊行くの!?」
「うん。一応ね」
その言葉に自然と顔がほころんでしまった勇登は、小学校時代のことを思い出した。
勇登が浜松の小学校に転校したのは、4年生になったときだった。
おおよそ2、3年に1回転属する母のおかげで、転校生のコツを掴みはじめていたから馴染むのは早かった。
5年生の夏休み、友達数人で湖に遊びに行ったことがあった。友達は全員自転車だったが、勇登はひとりダッシュだった。母の「男は走れ」という教育方針と、転属時に邪魔という理由で買ってもらえなかったのだ。途中、遅れをとった勇登は派手に転んだ。
流血する膝をかかえ涙をこらえていると、飯塚美夏(いいづかみか)が現れた。彼女は勇登を自分の家に招き手当をしてくれた。勇登は女の子の家なんてはじめてだったし、それまで美夏とはほとんど話したことがなかったから、緊張のあまりキョロキョロしていた。すると、本格的な航空機模型が沢山あることに気がついた。
勇登が次々と機種名をいい当てると、美夏は目を輝かせた。
「なんでそんなに知ってるの?」
勇登は両親のことを話した。美夏は満面の笑顔になるといった。
「実はね、私戦闘機のパイロット目指してるんだ」
美夏の笑顔はとても輝いていた。どちらかというと黒髪のおかっぱ頭の美夏は、勉強はできるが発言は少なく地味で、クラスでも目立たない子だった。しかし、前髪を上げて顔を出せば、実はクラスで一番かわいい子だと勇登は気がついていた。
数年間の穴埋めのための近況話が落ち着いたところで、みんなで近くのファミレスに行くことになった。ファミレスに向かって歩きはじめると、それまで女友達と一緒だった美夏が勇登の隣にやってきた。
二人は何となく集団の後ろに移動した。
「志島君、私のこと覚えてる?」
そういって笑う美夏は、艶のある長いストレートの黒髪と斜めに分けられた前髪からのぞく大きな瞳が印象的な美人になっていた。
「ああ、航空自衛隊入るんだな」
「うん。本当は航空学生として入りたかったんだけど、落ちちゃって。でも自衛官やりながら次も受ける予定。絶対受かるんだ。……志島君は?」
「俺はしがない浪人生」
「へえ、大学いってやりたいことあるんだ。すごいね」
美夏が髪をかき上げながら笑うと、ふわりといい香りがした。
「……まあね」
勇登は少し言葉に詰まりながら答えた。
ただ、去年受験した大学には、特別やりたいことはなく、周りに流されて受験していたのは確かだった。特にないけど目指してる、なんて初恋の子にいえる訳がなかった。
「ねえ、小学生のとき、自衛隊の戦闘機が墜落した事故あったじゃない。それで私が恐くなって、パイロットなるのやめる、っていったとき、志島君、私に何ていったか覚えてる?」
その事故が起きたとき、父親が電話で呼び出され出動したのを覚えていた。しかし、美夏と何を話したのかは、全く記憶になかった。
勇登が考え込んでしまうと美夏がいった。
「……いざとなったら、俺が助ける!俺の父さんは救難員でパイロットを助けるためにいるんだ。俺も救難員になるから、大丈夫。俺に任せろ!」
当時の勇登の口真似をしながら美夏がいった。そんな自分が可笑しかったのか美夏はクスクスと笑った。
しかし、勇登は美夏が誰の話をしているのかわからなかった。
――なんだ?なんだ、なんだ、なんかヤバイ。
急に耳を塞いでしまいたい気分になった。
胸のあたりがザワザワして、これ以上きくなと警告を発している。
「志島君、小学校の卒業文集にも書いてたよね。航空自衛隊に入ってメディック目指す、って」
「俺、……そんなこと書いたっけ?」
「うん。忘れちゃったの?」
「……あ、ああ」
勇登は上の空で答えた。
「なんだ、残念。私が戦闘機のパイロットになって、いざってとき、志島君が来てくれたら安心だと思ったのに。なればいいのに、メディック。……何かあったら助けてよ、俺」
美夏はがっしりとした勇登の肩を、小さな拳で力強く押して「なんてね」と冗談ぽくいった。
勇登は混乱していた。
――メディックになる?誰が?
全く心当たりがなかった。真面目な美夏が嘘をいうはずもなかった。
――俺は、何か大切なことを忘れている。
*
その夜。
家に帰ると、飼い猫が飯欲しさにすり寄ってきた。
しかし、勇登は「ニャー、今忙しいんだよ。後でな」といって三毛柄の彼女をなでながら引き離すと、すぐに文集探しをはじめた。自分の部屋、リビングの本棚、思い当たる場所は全部探したが、一向に見つからなかった。
途方に暮れた勇登は、家主に電話することにした。着信履歴から志島由良(しじまゆら)の名前を探す。
「はい、はーい」
高い声に驚いて、勇登は耳から携帯を離した。
「あ、俺だけど」
「おれ?おれって名前の知り合いはいませんがー?」
わざとらしく語尾を上げて由良が答える。
「……勇登だよ」
「ああ、勇登。ちゃんと名乗りなさい、っていつもいってるでしょ」
「息子の声くらい覚えろよ」
勇登はぶっきらぼうに答えた。
「あんたねぇ、わかってるに決まってるでしょ。でも十年後、二十年後、あたしの耳が悪くなって、勇登の声が識別できなくなって、あたしが詐欺にあったら、どうしてくれるの!?」
とてつもなく面倒くさいと思ったが、由良のいい分はいつも正しくて、反論の余地がない。更に、この勢いだとおしゃべり好きの彼女に話を持ってかれる。
「そうだね。ごめんごめん……」
勇登はその場を適当に取り繕うと、本題を切り出した。
「なあ、俺の小学校の卒業文集知らね?」
「……文集?なんでそんなもん探してんのよ」
「いや、理由はないけど」
勇登は由良に理由をいってはいけない気がしていた。
「……2階の、あたしの部屋の押し入れにあるんじゃない?わからないけど」
勇登は由良の答えにドキリとした。
そこは、父の遺品が入っている場所だった。
電話を切った勇登は、恐る恐る押し入れを開けた。
父が死んだ後、由良がここに父の遺品をしまっていたことは知っていた。でも、勇登はこの押し入れを一度も開けたことがなかった。
勇気を出して、一番手前にあった父の遺品の入った段ボール箱を開けた。幸運なことに文集はフタを開けてすぐに見つかった。他にも一緒に年賀状のような葉書や封書があったが、他は見ないようにして文集だけを取り出した。
勇登は文集を由良が子どもの頃使い込んだであろう木製の机にそっと置くと、ニャーに飯をあげにいった。
また、胸のザワザワが戻ってきていた。
一度気持ちを落ち着けたかった。
ニャーがツナ缶をすごい勢いで平らげるのを見届けた勇登は、由良の部屋に舞い戻った。窓際の机に座って、文集を開くと、自分のページはすぐに見つかった。
『ぼくの夢。ぼくは将来、お父さんと同じメディックになります。メディックとは、航空自衛隊で隊員やみんかんの人を助ける仕事をしている人のことです。ぼくがメディックになろうと思ったのは、お父さんとネコのニャーを助けたことがあったからです。あと、お父さんはきん肉りゅうりゅうで、かっこいいからです。お母さんもお父さんは世界で一番かっこいいといっていました。だから、ぼくもお父さんのようなかっこいいメディックになります。』
文章の端には、曲がった線でヘリコプターの絵が描かれていた。
勇登が混乱した頭のまま顔を上げると、目の前の真っ黒な窓に、涙を流す自分が映っていた。それと同時に、母の泣き顔が脳裏に浮かんだ。
その瞬間、すべてを思い出した――。
*
――6年前。
「お父さんもういないんだね」
部隊葬が終わって、制服という名の鎧を脱いだ母がいった。
勇登は母が濃紺のそれを丁寧にハンガーにかけるのを、泣きはらした目でただ見ていた。
「なんか食べよっか」
母は食材を探し始めた。
「簡単なものでいいよね」
そういって単身赴任先の夫の台所に立った母の背中は、いつもより小さく見えた。
官舎の中でも単身向けの間取りで、キッチンも小さなものだった。4月の北海道はまだまだ寒くて、官舎の1階は地面からの冷気で底冷えしているように感じた。
「手伝う」
勇登は母の横に立った。
この春から中学生になった勇登の身長は、172センチの母には全然届いていない。
「これ、洗えばいい?」
勇登は人参を取り上げて母を見た。
笑顔で「うん」と答えた母の両目からは、滝のように涙がこぼれていた。それでも、彼女は何事もないように手際よくキャベツを切りはじめた。
――自分が泣いてるって気づいてない。
そんな母を見て、再び涙が溢れた。
母の涙で勇登は父が死んだことを実感した。
勇登も泣きながら人参を洗っていると、それに気づいた母は手を拭いて勇登の後頭部を自分の肩に引き寄せた。
「そうだよね。つらいよね。ごめんね」
母は悪くもないのに謝った。勇登は「そんなんじゃない」といいたかったが、声にならなかった。
『俺に何かあったら、母さんを頼むぞ』
父の口癖だった。
今になって父の言葉が身に染みた。
――母さんは強いから大丈夫だって思ってた。でも、あの母さんが泣いた。
母さんを助けたいのに。支えたいのに。涙を我慢すると、今度は鼻水と嗚咽が邪魔して、勇登は何一つ言葉にすることができなかった。
母の涙を見たのは、それが最初で最後だった。
その日以来、父とその仕事の話が志島家でされることはなかった。
――俺は無意識のうちに、完成していた夢というパズルのピースを隠した。
そうすることが、一番いいと無意識に思ったのだろう。けれど今、そのピースが見つかり、メデックになりたかったことを、はっきりと思い出した。
――でも、それだけは絶対に駄目なんだよ。
パズルのピースは見つかった
けれどもそれを元の場所にはめ、夢という名のパズルを完成させることはできない。
勇登は、ゆっくりと文集を閉じた。
*
――困った。
勇登はここ数日で本当に気づいてしまっていた。
今でも本気でメディックになりたいということに。そのことを考えると、なれたときの妄想が止まらなくなるし、気がつけばいつもそのことばかり考えている。それは誰かに恋をしたときのような感覚に似ていた。
はじめて『メディックになりたい』と思ったときの感覚が、みるみる蘇ってきている。
そして、同時に迷ってもいた。
自分が本当にやりたいことはわかった。
けれども、母にどう伝えればいいのか。
今メディックになりたいといい出したら、母はどう思うだろう。
反対するかもしれない。泣かせてしまうかもしれない。その仕事で自分の夫が死んでいるのだから――。
勇登は勉強もせずパソコンを見ながら、そんなことばかり考えていた。いつもは頼りになるネットだが、この問題の答えはネットのどこを探しても書いてなかった。
――きっと、答えは俺自身が出さなきゃならないんだ。
勇登は意を決して、発信履歴から志島由良の名前を探した。
「はい、はーい」
「あ、勇登だけど」
「あんたからかけてくるなんて珍しいわね。それも二度も。どうしたの?」
「ええと。……俺、大学受験やめて、他にやりたいことあるんだけど」
「……ふーん。初耳ね」
「でも、なんていうか、その、うーん。難しいっていうの?」
いざとなると、どもってしまう自分がいた。
「うん、難しい。それで何をしたいの?」
由良はどんどん核心に迫ってくる。
「えー、まぁ、そっち方面に行くと色々心配かけるだろうし……」
「うん、心配。……だから、なに?結論からいいなさいよ」
はじめは優しかった由良の口調が、苛立ちを帯びはじめた。昔からせっかちなのだ。彼女が怒り出す前に勇登はいってしまおうと思った。しかし、由良がせきを切ったように話しはじめた。
「あたしが思うに、勇登、あんた覚悟できてないわね。覚悟決まった人間は、どうしたらそうなれるかばっか考えるのに忙しくて、いい訳なんてしないものなの。それで、あんたはどうしたいのよ?もう一回整理して、結論出してから電話しなさい!」
そうまくしたてると、由良は一方的に電話を切った。
「……俺は母さんを気遣ってんの。なんでわかんないかなぁ。息子の気持ちが!?自分の子どもの話をゆっくり最後まできくとか、そういうことできないの!?」
勇登は感じた憤りを携帯に向かってぶつけたが、その叫びは、空しく空を切った。
ただ、そばにいたニャーがこちらをじっと見ていた。勇登は近くにあった猫じゃらしをニャーの前で揺らした。しかし、彼女はぷいと横を向いて、部屋を出ていってしまった。
「お前もかよ。女はみんな冷たいな」
勇登は由良の机に突っ伏した。
時々、由良は母でなく、まるで上官のようだと思うときがあった。彼女には敢えて困難に突き進んでいく前向きさ、そして、それを乗り越える強さがあった。それでいて、明るく気さくな人柄は周囲を明るくした。彼女の周りはいつも笑顔が絶えなかった。
由良が結婚した当時は、仕事を辞めてしまう人が多かったという。けれども、彼女は仕事を続け、父が死んだ後も自衛官として、勇登を育て上げた。勇登はそんな母のことを尊敬していた。
普段は完璧に仕事をこなし、制服を着ているときの母は一分の隙もないように見えた。けれども、なんの前触れもなく見せる人間臭い弱さが、この人を助けたい、いや、助けなければと思わせた。
勇登は机に置いてあった雑誌のF-15の写真を、猫じゃらしでくすぐった。
――そういえば、美夏はいい訳じみたこと、一つもいってなかったな。
何としてでもなってやるって感じだった。
どうしたらもっとパイロットに近づけるかを考えて、実行してた。
でも、俺は彼女とは環境が違う。
父さんのことがあって、それで、母さんの気持ちも考えなきゃならない。
無敵だと思ってた母さんは、無敵じゃなかった。
母さんが泣く姿なんて二度と見たくない。だから、俺は夢を封印したんだ。母さんを守るために。迷うのは当然だ。
どうすればいいか、もうわからない――。
*
ナオは専門学校の入学式を終え、学校生活と店の仕事と忙しくしていた。
店のテーブルを拭きながら、ふとあることに気づいた。
――おかしい。あれから勇登が店に来ない。
いつも来る人が来ないと、気になる。こちらも忙しかったし、別につきあってるわけでもないから、連絡はしなかった。勉強の邪魔になってもいけない。それでも、なんだかんだといって、週末には顔を出すことが多かった。
同級生といい感じになった、とか――。
高校時代勇登はモテたが、誰ともつきあわなかった。想い人がいた、からなのか。
――なんか、すっごく、気になる。
ナオは頭を抱え、身をよじらせた。
高1のはじめ、ナオは勇登のことをたいして気にしていなかった。勇登はいつも元気で自然とクラスの中心にいて、いつも太陽のような笑顔で笑っていた。ナオも明るい性格といわれることが多かったが、彼には遠く及ばなかった。
クラスの女子は彼を見ては騒いでいたが、まるで興味がなかった。中学時代に自分がいたポジションを、彼に取られてしまったように感じていたからだった。
しかし、ある日を境に、急に勇登のことが気になりはじめた。
その日は朝から体調がすぐれず、体育のバスケの授業を見学した。他にも数人の女子がお腹が痛いといって見学したが、それは勇登のプレーを見るためだとすぐにわかった。本当に体調が悪い自分にとっては迷惑な話だった。
バスケをする勇登は確かに光輝いて見えたし、本人も楽しそうだった。
それなのに、授業が終わりみんなが更衣室に向かいはじめた一瞬、彼はすごく遠い目をしていた。気を抜いたら途端に吸い込まれてしまいそうな、深い哀しみの瞳。
しかし、誰かが振り返ると、すでにいつもの彼に戻っていた。
――彼も「何か」を抱えている。
はじめクラスの女子が騒いでるときは、なんとも思わなかった。
でも、彼の中にあるであろう「何か」を見た途端、一気に気になりはじめた。それからも彼はふとした瞬間に、その瞳を見せた。
勇登の瞳は昔理科の授業で習った黒点のことを思い出させた。
太陽の中にある黒いやつだ。
彼がふとした瞬間見せる瞳は、まるで太陽のそれだった。普段は眩しくて全然見えないし、そんな部分があることも感じさせない。でも、確実に存在している。
――なにか、力になれないかな。
純粋にそう思っていた。
そんなとき、スーパーの総菜コーナーで勇登を見つけたのだ。彼が高校デビューに成功したかっこいい男子というだけだったら、きっと、
あの日声をかけなかった――。
そして、勇登がはじめて店に来た数週間後の朝、その事件は起きた。
下駄箱で靴を履き替えようとすると、ゴミのような小さな紙切れが上履きの中に入っていた。
『今日行ってもいい?』
「――!!」
紙には小さく汚い文字でそれだけ書かれていた。自分の顔が赤くなっていくのが手に取るようにわかった。
ナオは動揺しながらその紙切れを、すぐにポッケにしまった。
誰かに見られたらまずい。
返事も教室ではできない。
ナオは廊下ですれ違いざま「いいよ」と小さい声でいった。
勇登の隣にいた男子には、こいつ何いってんだ、という目で見られたが、彼は笑い返してくれた。
以来、勇登は母親が当直の日は必ず店に来るようになった。それまで、あまり店の手伝いをすることはなかったが、ナオも勇登が来る日は必ず店に立つようになった。
勇登は休みの日にも来るようになった。店に立つ回数がおのずと増えた。
勇登は一度母親と食事に来たことがあった。彼女は「いつも息子がお世話になってます」といって、当時名古屋で流行していた有名パティスリーの菓子折を持ってきてくれた。勇登がばつが悪そうな顔をしていても、母親はまるで知らん顔で自分のペースを貫いていた。
きっと仲がいいのだと思った。
そういったことも含めて、あの頃はなんだかすべてが楽しかった。
ナオはこの日最後の客を見送ると、両腕を真っすぐ上に伸ばして思い切りあくびをした。
時計を見ると、あと少しで閉店だった。
次の瞬間、店のドアベルが勢いよく鳴った。
*
勇登はドアの前で腕時計を確認した。
喫茶PJ、閉店10分前。
「ギリギリセーフ!」
店のドアを勢いよく開けると、努めて明るくそういった。勇登と目が合うと、ナオは挙げていた手を焦って下ろした。
「何がギリギリセーフよ。もう閉店です」
客のいない店内にナオの声が響いた。
「いいじゃん。少しだけ」
そういってカウンターに座る勇登に、ナオは口を尖らせながら水を出した。
「今日は何よ?」
「ん?」
「知ってた?勇登は私に話があるとき、閉店間際にくるの」
「そうだっけ」
勇登は天井を見た。
「そうよ。で、なあに?」
勇登はここ数日の出来事をナオに話した。ナオはちゃんと聞いてくれると、勇登は知っていたからだった。
「勇登は優しいんだね」
一通り話をきいたナオは、開口一番そういった。思いもよらない言葉に勇登は赤くなった。当然反対されると思っていたのだ。ナオは続けた。
「勇登がお母さんを想う気持ちは嘘じゃないと思う。でも、それってお母さんのこと想ってることになるのかな」
「……どういう意味?」
「つまり、自分のせいで勇登がやりたいことやれてないって知ったら、お母さん悲しいんじゃないかな」
「まあ、……そうかもな」
「お母さんがどう思うかも大切だけど、それより、勇登がどうしたいかのほうが大切なんじゃないかな?勇登の話、ずっとお母さんが主役で、勇登はどこに行っちゃったのかなって思った。お母さんと勇登は別なんだし、お母さんがどう思うとかじゃなくて、そういうこと、全部、全部、取り払って素直な気持ちで考えてみたら?」
「それができればこんなに悩まないよ」
勇登はアイスコーヒーを額につけた。
「じゃあ、仮に、仮によ、家族が全員元気で、問題がなーんにもなくて、どうぞ好きなことして下さいってなったら、勇登はどうしたいの?」
――メディックになりたい。
勇登は心の中で即答していた。でも、言葉には出せなかった。
「なりたいんでしょ」
ナオの言葉に勇登はコクリと頷いた。
「でも、いいのかな」
「いいも悪いも、それが勇登なんだから仕方ないんじゃない?私は勇登が勇登らしく生きれる道を選んだらいいと思う」
「そうかな」
「そうよ。……それにしても、勇登はお母さんのこと大好きなんだね」
「な!」
勇登が顔を真っ赤にして反論しようとすると「別にからかってるわけじゃないから」とナオがなだめるようにいった。
「……まあ、嫌いではないよ」
「素直じゃないね」
ナオは優しい目をしていった。
「だから、勇登の本当の気持ち、私は伝わると思う」
「うん……」
ナオにそういわれ、勇登は大丈夫な気がしてきていた。
「あと、私思ったんだけど、勇登、大学受験のとき、二回も病気になったじゃない?」
「あ?……ああ、そんな事件もあったな」
勇登は目をぱちくりさせて答えた。今の問題のほうが大きすぎて、すっかり忘れていた。
「あれって、勇登の中の本当の気持ちが必死に『こっちじゃない!』って教えてくれてたのかも、って思ったんだけど……」
「……それ、新しいな」
「でしょ!」
ナオはこの日、はじめて笑った。
受験に失敗したときは、情けないわ、恥ずかしいわで、本気で嫌だった。
けど、もしナオのいうとおりだとしたら、今が本当の自分に戻るチャンスなのかもしれない。
逃げずに、今もう一歩踏み込んで、あの事件を正解にしてしまうのだ。
勇登は、すっかり氷が溶けてしまったアイスコーヒーを飲み干した。
そして、「よし」といって勢いよく席を立った。
「帰るの?」
「ああ、ありがとな、ナオ!」
心の底から出た感謝の言葉だった。
帰り際、勇登はドアの隙間から顔だけ出していった。
「お前ってなんか、ばあちゃんみたいだな」
「ばあちゃ……はあっ!?ちょ、待て、こら、勇登!」
ナオの声に押されて、勇登はすでに走り出していた。
*
勇登は家に帰ってシャワーを浴びた。汗と一緒に体の表面に残っていた迷いも流した。
きれいになった勇登は由良の机に座り、もう一度、文集に書かれた歪んだヘリコプターの絵を見つめた。
正直な俺の気持ちは――。
リダイヤルボタンを押した。
「母さん、俺、勇登。俺メディックになるから」
通話がはじまった途端、一息でいった。そうすると決めていた。
由良はしばらく黙ったままだった。聞こえなかったのかもしれない。
心臓の鼓動が高鳴った。
「……あんたが、自分で考えて、そう決めたの?」
「ああ。俺が決めた」
「……そう。勇登が自分で決めたんなら、それは正しいと思う」
由良がどんな顔でそういったのか、わからなかった。でも、後悔はしていなかった。
「頑張んなさい」
あっさりと、しかし力強い口調で由良がいった。
肩の力が一気に抜けた勇登は「あー、反対されるかと思った」と力ない声でいった。
「反対するわけないでしょ。あんたの父さんは、こ、の、わたしが、一番と認めた男で、その男に近づこうっていうんだから」
由良は『この私』を妙に強調した。電話の向こうで胸を張る姿が思い浮かんで、勇登は思わす吹きだしてしまった。
その瞬間、この前見つけたピースが元の場所にぴったりとはまり、心の中にあったパズルが再び完成した。
勇登がメディックという言葉を口にしたのは、実に6年ぶりのことだった――。
※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、組織、名称とは一切関係ありません。